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以蔵さんの他の記事
→ お墓
→ 鴈切河原
→ 獄舎の一部が移築されている神社
※2020.09「正伝 岡田以蔵」を参考に、少し修正しました
以蔵さんの家があったのは高知駅のすぐ近くです。
「山田橋」を目印にすれば迷わずに行けるのではないでしょうか。
路面電車の電停「高知橋」から五分もかかりません。
こちらも参考にどうぞ
→「以蔵さんの家があった辺りへの行き方」
現在では具体的な場所はもうわからなくなっており、「この辺りに家があった」という程度です。
以蔵さんの家は、橋の北側にありました。
どらやき専門店「かね寅」さんが目印です。 周辺を歩く際には、車に気を付けてください。
この辺りに、以蔵さんの家はあったようです。
(このどらやき専門店さんが以蔵さんの家のあった場所というわけではありませんのでご注意を)
よろしければ、どら焼きもぜひ。税込160円です。
山田橋の南側には、以蔵さんが投獄された山田町の獄舎がありました。
斬首されたのもこの獄舎だそうです。
家のすぐ近くで斬首されたことになります。
山田橋には歩行者用の橋が別にありますので、車の往来を気にせず以蔵さんの家があった辺りを橋から眺めることができます。
上の写真は、橋から以蔵さんの家のあった方向を見たところです。
この写真は、橋から南側を見たところ。
獄舎があったあたりが見えています。
橋を渡った東側(写真でいうと左側)に獄舎があり、西側(右側)に番所があったそうです。
以蔵さんの家には、獄舎よりも番所の方が近かったことになります。
歩行者用の橋を南側に渡ると、番所跡の案内表示があります。
この橋を渡って、以蔵さんは武市先生の道場に通っていたのではないでしょうか。
以蔵さんは1838年生まれ。
現在の南国市で生まれ、その後高知市で暮らしたという情報も多く目にします。
「正伝岡田以蔵」によると、1837年には城下への転居が禁止になったとありますし、上で紹介した場所の前には材木町というところに住んでいたらしいともあります。
以蔵さんが今の高知市で生まれた可能性は、結構高いのではないでしょうか。
現在の南国市で生まれたという情報では香美郡岩村ともありますが、当時は神通寺村といいました。以蔵さんの家は時期はともかく、神通寺村から高知市に移り住んだのは確かです。
神通寺村は明治22年の町村制により周囲と一緒に岩村となり、昭和34年にさらに合併して南国市となり、その数日後に神通寺は香美郡土佐山田町に編入となりました。
神通寺村→岩村の神通寺→南国市の神通寺→土佐山田町の神通寺
ということのようです。
土佐山田町は平成18年にさらに合併して現在は香美市となっていますが、神通寺という地名は残っています。今の住所で言うなら、高知県香美市土佐山田町神通寺が、以蔵さんの父の代まで住んでいた場所です。
材木町は上で紹介した山田橋から南に10分ほど歩いた辺り、高速バスが停車する「はりまや橋観光バスターミナル」の、道路の向かい側を少し入った辺りです。
材木町の辺りは海運の中心地でしたし、山田橋の辺りも川を小舟が行き交っていたようですので、以蔵さんは活気溢れる空気の中で育ったのではないでしょうか。
以蔵さんの他の記事はこちら
→ お墓
→ 鴈切河原
→ 獄舎の一部が移築されている神社
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→ 獄舎の一部が移築されている神社
※2020.09「正伝 岡田以蔵」を参考に、少し修正しました
以蔵さんの家があったのは高知駅のすぐ近くです。
「山田橋」を目印にすれば迷わずに行けるのではないでしょうか。
路面電車の電停「高知橋」から五分もかかりません。
こちらも参考にどうぞ
→「以蔵さんの家があった辺りへの行き方」
現在では具体的な場所はもうわからなくなっており、「この辺りに家があった」という程度です。
以蔵さんの家は、橋の北側にありました。
どらやき専門店「かね寅」さんが目印です。 周辺を歩く際には、車に気を付けてください。
この辺りに、以蔵さんの家はあったようです。
(このどらやき専門店さんが以蔵さんの家のあった場所というわけではありませんのでご注意を)
よろしければ、どら焼きもぜひ。税込160円です。
山田橋の南側には、以蔵さんが投獄された山田町の獄舎がありました。
斬首されたのもこの獄舎だそうです。
家のすぐ近くで斬首されたことになります。
山田橋には歩行者用の橋が別にありますので、車の往来を気にせず以蔵さんの家があった辺りを橋から眺めることができます。
上の写真は、橋から以蔵さんの家のあった方向を見たところです。
この写真は、橋から南側を見たところ。
獄舎があったあたりが見えています。
橋を渡った東側(写真でいうと左側)に獄舎があり、西側(右側)に番所があったそうです。
以蔵さんの家には、獄舎よりも番所の方が近かったことになります。
歩行者用の橋を南側に渡ると、番所跡の案内表示があります。
この橋を渡って、以蔵さんは武市先生の道場に通っていたのではないでしょうか。
以蔵さんは1838年生まれ。
現在の南国市で生まれ、その後高知市で暮らしたという情報も多く目にします。
「正伝岡田以蔵」によると、1837年には城下への転居が禁止になったとありますし、上で紹介した場所の前には材木町というところに住んでいたらしいともあります。
以蔵さんが今の高知市で生まれた可能性は、結構高いのではないでしょうか。
現在の南国市で生まれたという情報では香美郡岩村ともありますが、当時は神通寺村といいました。以蔵さんの家は時期はともかく、神通寺村から高知市に移り住んだのは確かです。
神通寺村は明治22年の町村制により周囲と一緒に岩村となり、昭和34年にさらに合併して南国市となり、その数日後に神通寺は香美郡土佐山田町に編入となりました。
神通寺村→岩村の神通寺→南国市の神通寺→土佐山田町の神通寺
ということのようです。
土佐山田町は平成18年にさらに合併して現在は香美市となっていますが、神通寺という地名は残っています。今の住所で言うなら、高知県香美市土佐山田町神通寺が、以蔵さんの父の代まで住んでいた場所です。
材木町は上で紹介した山田橋から南に10分ほど歩いた辺り、高速バスが停車する「はりまや橋観光バスターミナル」の、道路の向かい側を少し入った辺りです。
材木町の辺りは海運の中心地でしたし、山田橋の辺りも川を小舟が行き交っていたようですので、以蔵さんは活気溢れる空気の中で育ったのではないでしょうか。
以蔵さんの家があった辺りに行くと、川の向こうに森が見えます。
「高知八幡宮」といって、明治になってからここに奉遷された神社です。
以蔵さんが生きていた頃は高知城にあり城内城下鎮守の神様だったそうです。高知城を守る神社が明治維新後に以蔵さんの家のすぐ近くに引っ越してきたことになります。
その高知八幡宮のすぐ近くに、「神明宮」というとても小さな神社があります。
境内の案内板によると、江戸時代までは高知城下の総鎮守で、祭礼には露店がたくさん出たそうです。
だんじりが出て前代未聞のにぎわいだったとも書かれています。前代未聞のにぎわいをみせたのは以蔵さんが生まれるよりもずっと前の記録だそうですが、「龍馬の生まれたまち記念館」には、祭りの時にだんじりが出てにぎわっている様子の絵がありましたので、以蔵さんもだんじりや露天で盛り上がる近所のお祭りの様子を目にしたのではないでしょうか。
かつては城下の総鎮守だったそうですから、もしかしたら以蔵さんもお参りしたことがあったのかもしれません。
かつては城下の総鎮守だったそうですから、もしかしたら以蔵さんもお参りしたことがあったのかもしれません。
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→ 獄舎の一部が移築されている神社
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